埼玉フィル発展の歴史を語る

創立35周年記念演奏会(第44回定期演奏会・平成14年11月)にあたって、オーケストラの35年の歴史を振り返って、団員歴の長い3人、フルート森岡さんチェロ長島さんホルン手塚さんに、おもに草創期から15年間ほど、現在の埼玉フィルのスタイルが確立する兆しが見えてきたころまでの、埼玉フィルの様子を語っていただきました。

この対談は、記念演奏会のプログラムに掲載されたものの完全版です。

初期の埼玉フィルの様子

まずは、皆さんがいつ頃入団されたか教えてください。

森岡:「1972(昭和47)年だったと思います。「アルルの女」をやった演奏会のまえでしたね。このときのソロがうまく吹けなくて、あわててレッスンに通いました。」
長島:「その翌年、1973(昭和48)年の2月です。」
手塚:「僕はずっとあとの、1980(昭和55)年です。お二人にくらべたら、これでも新しいほうです。」

では、創立のいきさつなどはご存知ないのですね。森岡さんや長島さんが入団した頃は、埼玉フィルはどんな様子だったんですか?

森岡:「まだその頃は「埼玉フィル」ではなく、「埼玉室内管弦楽団」という名称で活動していました。南浦和駅から車に乗りあわせて、川口市内の幼稚園で練習していました。」
長島:「私が入団した頃は団員が10名足らずで、合奏するといっても練習する状態ではなかったです。2時に集まって、1時間くらいなにかやって、3時頃から10時頃まで飲んでいたのではないでしょうか。実はいやになって他のオケを探したんですが、当時県南には、他にアマチュアのオケがなかったのです。」
森岡:「1時間の練習といっても、何をやっているのかわからないような内容で。それからいつも、まず南浦和駅前の喫茶店でビールを飲んで、それから飲み屋さんに行って、夜おそくまでよく飲んでましたね。」

オケ発展の契機

そのような状態から、どのようにしてオーケストラらしくなっていったのですか?

森岡:「元N響(NHK交響楽団)チューバ奏者の、佐藤倉平先生のお力は大きいでしょう。埼玉フィルではコントラバスをされていました。武蔵野音大で教えられていた、チューバ界の重鎮です。“鬼の倉平”と恐れられたこともあるそうです。」
手塚:「僕が知っている頃は、やさしいおじいちゃんという感じでしたが。」
長島:「なんとかオケを発展させたいと思って、南浦和の先生のご自宅に3人で連れだって指導をお願いに行ったんです。言葉を尽くしてお願いすると、「では団員としてご協力しましょう」とお引き受けくださいました。ありがたかったですね。そのあと夜までお邪魔して、お酒もごちそうになりました。感激でした。」
森岡:「しばらく後の話ですが、演奏会のときに、金管楽器のエキストラを連れてきてくださるんですね。それが先生のお弟子さんで、N響チューバ奏者の多戸さんをはじめ、読響とか、プロのオーケストラで活躍されている有名な方ばかりなんです。その方々がBMWに乗って練習に来てね。「先生、よろしくお願いします!」って。合奏が始まると迫力がすごい。みんなびっくりでした。」
手塚:「多戸さんがワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を吹いたのは、よく覚えています。あの、有名なチューバの旋律ですね。1981(昭和56)年です。」
長島:「エキストラ代は先生がポケットマネーから出してくださっていたのですが、多戸さんなんて、演奏会の打ち上げでそのお金を寄付してくださったりして。タダでエキストラでしたよ。」
手塚:「佐藤先生がチューバを吹いているのを、1度だけ見かけたことがあります。僕が早めに練習に行くと、先生がお一人でチューバを吹いていらしたんです。僕に気付くと、「歯がダメでもう吹けないよ」なんておっしゃって。先生には、N響定期公演の招待状をいただいたこともありました。それから飲み屋で、「この店に来たら、薩摩揚げを頼むんだ」って教えてくれたりね。」
森岡:「倉平先生にはずいぶんお世話になりましたが、先生も埼フィルのことをずいぶん熱心に思ってくださり、お亡くなりになったときのお別れの会に僕が団長としてうかがったら、埼玉フィルの代表ということで壇上に上げられまして、でも一緒に並んでいるのは、N響とか、プロのオケの代表ばかりなんですよね。照れくさいやら、でも本当にありがたかったです。」

プロの指揮者を依頼

指揮者に専門の方を迎えたのもその頃ですか?

長島:「はい。当時、アマチュア指揮者の百瀬力さんという方に指導していただいていたのですが、オケの発展のためには指揮が専門の方がいいだろうと百瀬さんもおっしゃり、芸大の先生に依頼して、学生さんを紹介してもらったのです。そうして来ていただいたのが、増田宏昭さんでした。」

現在、ドイツの歌劇場で音楽監督をされている……。

長島:「コブレンツ市立歌劇場をずっと指揮されていて、その間ザールラント州立歌劇場の指揮者、今年の秋からはノルトハウゼン/ゾンダーハウゼン合同劇場の音楽総監督をされています。国内でも新国立劇場などでオペラを指揮され、12月には東京フィルとマーラーの「巨人」を演奏されます。最初に増田さんにお願いしたときに、オケの様子を見て辞退されてしまいました。それはそうでしょう。練習といっても、12~13人しかいないんですからね。我々も仕方ないと思いました。ところがそこで、佐藤倉平先生が、「おまえ、こういうところを指揮しなくっちゃダメじゃないか」と言ってくださったんです。アマチュアでも、オケを指揮することは勉強になると。本当に、ありがたかったです。」
森岡:「佐藤先生に言われたら、増田さんも学生でしたし、逆らえませんよね。佐藤先生は、「小澤(征爾)くんでも連れてこようか」とおっしゃったこともありました。」

ずいぶん、お力のある方だったんですね。それからオケの発展が始まるのですか?

長島:「はい。でも、そう簡単にはいきませんでした。対立して、オケを去っていった人もいましたね。」
森岡: その頃は団員数も少なかったので、清瀬のほうのオーケストラと提携して、お互いに演奏会に出演しあったりしました。それで、やっとモーツァルトをやったりしていたんです。」

1979(昭和54)年に、名称を「埼玉室内管弦楽団」から「埼玉フィルハーモニー管弦楽団」にかえています。なぜ、かえようということになったのですか?

森岡:「「未完成」や「運命」のようなシンフォニーをやる規模になって、「室内」という名がそぐわなくなってきたと思ったのです。」
長島:「オケを発展させたいという思いもありました。「室内管弦楽団」では、メンバーが集まりにくいと考えました。でも、反対してオケを辞めて、新たに「埼玉室内管弦楽団」をつくった人たちもいましたね。目指す方向が違ったのでしょうね。」
森岡:「「埼玉フィル」に変更してしばらくして、川越のほうで同じ「埼玉フィル」と名乗った団体があらわれたんですね。そのときは先方に電話して丁重に説明すると、すんなり納得して名前をかえくれました。」
長島:「実は、話し合いでは「埼玉フィルハーモニー交響楽団」にしようということだったんです。でも私と数名で、“~管弦楽団”のほうが柔らかくていいと、勝手にかえてしまった記憶があります。」

「第9」の演奏会

目立つ活動として、1982(昭和57)年にベートーヴェンの「第9」をやっていますよね。

手塚:「佐藤倉平先生から、そろそろ「第9」をやってもいいんじゃないかと言われたのがきっかけだったと記憶しています。下の写真は、この「第9」の練習の時に撮った写真です。ちょっと陰になっていますが、右端のコントラバスのうしろにいるのが倉平先生です。」
森岡:「その時は運営委員長をやっていましたが、「第9」をやるなら長島さんに委員長をやって欲しいと交代しました。」
長島:「当時県内では、大宮に第9の合唱団があってプロのオーケストラを呼んで「第9」をやっていたのですが、アマチュアのオケ・合唱で「第9」をやったのは、県内で最初だったのではないでしょうか。「合唱浦和の会」を尋ねて、「『第9』を一緒にやりましょう」と説得に行ったのです。ここと提携できれば、“浦和の「第9」は埼フィル”ということになると思いましたから。団員にも、「埼玉フィルは埼玉を代表するアマオケなんだ」と思って欲しかったし。実際ここで「第9」をやって、教育委員会などでも「埼玉フィル」の名が知れわたったんだと思います。「第9」をやるというので、団員も80人以上にふくれましたしね。団員数はその後、増えたり減ったりですが、この頃にようやく、アマチュアレベルですが演奏もオーケストラらしくなったのではないでしょうか。」
手塚:「このときの「第9」では、本番で飛び出したりした人などもいて、みんな緊張してたんでしょうね。」
森岡:「でもあの「第9」は大成功で、翌日ある団員が浦和でバスに乗ったら、乗りあわせた知らない乗客が、「きのう『第9』のコンサートがあって、素晴らしかったのよ」と話しているのを偶然聞いたとか。興奮して知らせてくれました。これはうれしかったですね。」

現在のスタイルへ

指揮はその頃も、ずっと増田さんだったのですか?

長島:「そうです。いまの埼玉フィルの基礎をつくってくれたのが、増田さんなんです。」
森岡:「でもその他にも、今では有名になった指揮者もずいぶん代振り(臨時の練習指揮)で来ましたよ。現在海外でも大活躍されている大野和士さんが来たのは、大野さんが芸大の受験のときでした。まだ高校生だったのに、すごい指揮でした。彼が振ったあとは、オケの音がかわったのを覚えています。また「第9」より少しまえですが、エルビン・ボルンさんという芸大の客員教授に、歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」の抜粋を指揮していただいたことがあったんです。このときにたくさんお弟子さんを連れて、ためしにちょっとずつ振らせたりしていました。松尾葉子さんなども、そのときに振っていきましたね。」

年1回だった演奏会を2回にしたいきさつは?

手塚:「年1回の演奏会でも、結局最初の半年は遊んでいるようなもので、うまい団員は後半しか練習に出てこなかったんです。それなら、年2回でも同じじゃないかと。」
森岡:「この、演奏会を春・秋の年2回にするときにも反対の意見もありました。でも演奏できる曲の数も倍に増えるわけで、結果的にはよかったですよね。」

そうして現在のスタイルができていったのですね。最後に、長い間埼玉フィルを続けてこられた感想をどうぞ。

森岡:「オケのなかでいろんなことがあって、それを力をあわせて解決したり、話し合ったりしながら、仕事と家庭だけの人生では経験できないような貴重な体験を、いっぱいさせてもらいました。埼フィルもずいぶん成長したけど、僕もそのあいだに、ずいぶん育っちゃいましたよ。(笑)十代の頃からやっているので、生活の一部のような感じです。団員として長いぶんだけ、いろいろな経験ができてとても楽しいです。また今年、運営委員に復帰してうれしかったのは、それぞれの担当が各自の役割を自主的にしっかりこなしていることでした。かつては、ちゃんとやっていたのは最初の数か月という人が多かったですから。これからも頑張ってオケを続けていきたいですね。」
長島:「人生かけちゃいましたね。でも、初期の頃のことを考えたら、最近など本当に練習が楽しいですよ。レベルもあがったし、人数もずいぶん増えましたからね。最近の団員にも、こういう大変な過去があって今の埼フィルがあるということを知っていてほしいし、これから埼玉を代表するオケとして認められるように、皆で目指して頑張っていきたいですね。」

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